04 思考の制御

(1)接続詞の用い方が完成する
(2)抽象性・普遍性を具体性・個別性より優先させられる
(3)身体の中での大脳・論理の独立性を生き始める
(4)常に自分の評価の基準を意識できている
(5)寛容と常識に気づくnew

(1)接続詞の用い方が完成する

自宅付近の鳥瞰図を描ける。
自分・世界を客観化できる。
自分・世界を客観化する力と接続詞を使いこなす力は、セットになっている。
「論理を接続させ、また逆転させ、時に対比させ、時に累加することを予告する」接続詞。
(参考「文章読本」井上ひさし著 新潮社 p.81)

(2)抽象性・普遍性を具体性・個別性より優先させられる

抽象的な思考が可能になる。
必要により、見えるものを無視し、見えないものに注目できる。例えば重心(その物体の重さの中心という意味とその物体の重さのすべてが集中している一点と見なしてよいという意味がある。)・生物分類(魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類=類的な自己再生産つまり赤ちゃんの作り方のみに注目し、羽があるかとか水中に住んでいるかとかを無視するとこの様な分類ができる。)。
記号を実体視せず、記号として操作できるようになる。3αーα=2α・・・「3」?
ディベートで自己の立場を反対の立場に転換されても、即、逆の発想に耐えられる。3年生には不可能。
掛け算・割り算を理解できるようになる。5人/組×3組=15人
時計の針を正確に読めるようになる。:場合によっては、「目に見えないことが見えることよりも重要だ」と判断できる。
体験上納得できないことでも、論理的に証明されたことは受け容れられるようになる。
人情・常識・法律に従い、公正さ・平等性・自尊心から、自分自身には個人的に損になることでも、受忍できるようになる。

(3)身体の中での大脳・論理の独立性を生き始める

情緒や感情に根ざした外言(口頭表現)の外に、内省を経た論理的な内言・思考(書き言葉になる。)が可能になる。
::口で何かを語りながら、同時に先のことを考えられるようになる。
意識的統合的な書き言葉を使うようになる。
::繰り返しや矛盾がない明快な論理性を持った文章を作れる。
(参考 桜井邦朋「日本語は本当に非論理的か」P13/32祥伝社)

(4)常に自分の評価の基準を意識できている

時系列に添って物事を羅列する文章の段階から、一つの結論を目指し、全体の構成を考えて物語を作れるようになる。
読書感想文を書けるようになる。
::常に自分の評価の基準を意識できている。我が人生を貫き、最終ステージを支える原風景をイメージできている。

(5)寛容と常識に気づくnew
~杓子定規の法律解釈のレベルから寛容と常識による「法律の運用」へ~

『可罰的違法性』
(違法でも罰を与えるべき事、与えるべきでない事がある。)

〇1厘の葉っぱ泥棒行為は罰せられるべきか否か
札幌 北海道大学の北キャンパスにあった大講堂で、50年ほど前、私は教養部の文類(教育・文学・法学・経済学部合同)1年生として、法学部長畠山教授の法学概論を受講した。彼は「法律学の基本は常識である。」と切り出して、明治43(1910)年10月11日の大審院(現最高裁)判決「可罰的違法性」について語り出した。

1人の農民が、自家製の葉煙草の数枚(当時の価格で1厘)を供出せず、自家消費して逮捕され、窃盗の罪で裁判に付せられた。この裁判は 1人の弁護士の努力によって、大審院にまでもつれ込んで、遂に無罪判決となった。あれから110年、今でも有名な判例となっている。
無罪判決の元になったのが、「可罰的違法性」の考え方。
それが電気であれ、水であれ、お金であれ、人のものを盗めば、泥棒は警察に逮捕され、訴えられ、処罰されることは誰でも分かっている。
が、大審院は、「零細な違法行為は、実体法上犯罪に当たらず。」とし、盗むという違法行為も、裁判所によって罰せられるべき罪と、罰するに値しない罪がある、と判示し、「1厘の葉っぱ泥棒行為は、罰せられるべき違法性を帯びていない。」とした。
それが何であれ、刑法に触れる行為は全て、警察等によって処理されるべきだという考え方は、「杓子定規」といい、非常識という。まさに「杓子定規」は人工知能が得意とする論理的で一貫性がある考え方だが、その考え方・能力が、立ち往生し、破綻し無効になることがあるのは、人工知能君にはお気の毒。

畠山教授は、「君たちは、常識を以て法律を『運用』しなければいけない。」と語られた。

その常識の基本が、9歳までにできあがると私は考える。

〇9歳までにいかなる事態におかれても「楽観性」・「自己信頼」・「希望」を失わない品格を身につけておくべきだ
お昼ご飯の時、汁をこぼしてしまった5歳の子供を、即「何やってんのよ。」と叱りつける先生がいる。
木更津社会館保育園では、先生はたとえ気づいても、すぐ動かない。その子と一瞬、目を合わせつつも、黙って本人が雑巾を持ってきて始末をするか、仲間達がすっと立って雑巾を持ってきて拭いてあげるのを待つ。全てが元に戻されたとき、先生は、失敗した子ともう一度、目を合わせてニコッとする。勿論、本人が動転して立ち往生した場合は、仲間の援助を促すか、先生自身が立ち上がることもある。
いかなる失敗にも原因があるとしても、うっかりミスの存在を知っている子供達・保育士達は、仲間・子供の1つ1つの失敗を責めること、本人の面目を潰すことをしない。小さな間違いや、トラブルを殊更、誰かの責任にして「一言謝らせる」ようなことをしない。
これは、「優しさ」「親切」「寛容さ」というものだ。1厘泥棒のささやかな「出来心」を責めない常識が、ここに養成されている。そもそも子供達は、失敗を恐れず、平然と乗り越えるべきなのだ。仲間達も、仲間の失敗を以てその子の評価を変えるような習慣を持つべきではないのだ。

総じて、誰かとの葛藤状態に置かれたとき、そこに人からの「悪意」「敵意」「いじわる」を全く感じない感受性を養成しておくことはとても重要だ。2歳の時の強力な葛藤耐性(葛藤に耐える力)を原点に、9歳までに、いかなる事態におかれても「楽観性」・「自己信頼」・「希望」を失わない品格を子供達は身につけておくべきだ。
この「ルールの運用」能力は、人生を通して、失敗からの復元力・人様からの心ない誹謗中傷にめげない自己信頼・自信喪失状態におかれてもわずかに残る根源的な有能感からの再出発を可能にしてくれ、時にその後の波瀾万丈の人生をさえ生み出させてくれる。

子供達は、時に失敗をしでかし、時に病気になり、時にケガをし、喧嘩をしながら、人への思いやり、寛容さを身につけなければならない。その意味で、完全な大人の監督管理状態、いわば、刑務所のように完璧な平穏状態が、子供達(2才以上児)の成長学習環境として相応しいかどうかは、今でも保育所・幼稚園関係者にとって重要な議論のテーマだ。

2020.1.31

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