03 リズム

(1)サクラ・サクランボのリズムを社会館に
(2)リズムのためのグランドピアノ
(3)お遊戯会から公開リズムへ

リズムは、運動のためだけでなく、その子の中の音楽、集中、心と体の衝動を自然と引き出していく。


(1)サクラ・サクランボのリズムを社会館に

1978年度、勤務2年目4歳児担任の平方保育士にお願いして、リズムのピアノ練習を始めて貰った。
4歳児だけ試行して運動会でリズムをご披露した。ピアノ平方、演技宮﨑の分担だった。観客からは、「何をやっているのかさっぱり分からない。」とさんざんだった。が、子供達の反応は悪くなく、平方先生も段々乗り気になってくれた。翌年10月から全園児が始める。但し当時社会館保育園には3歳児以上しかいなかった。

1973年頃私は、深谷のさくら保育園の分園、出来たての頃のサクランボ保育園に伺った。背広を着て千葉県君津支庁社会福祉課社会係保育所監査担当職員として1人で視察に行った。斉藤公子先生は、子供達のリズムを見学していた私に「宮崎さんも一緒にやりなさい。」と言われた。25歳の背広の男が、一緒にやってみて「リズム」はとても心楽しいものだった。終わって「けいこちゃん」という名の障害児が、私について離れなくなった。それを見ておられた斉藤先生は、「あなたは県庁の役人には合わないでしょうから、辞めたら、ここに来なさいよ。」と仰った。
リズムは、保育所の子供達にぴったりの課題だと私は思った。県職員であったが、その後何度か夜6:00から保母学校(深谷駅近くにあった「さくら保育園」で実施されていた。)に通った。

斉藤喜博先生の世界がそこにあった。皆真剣だった。講師の丸山亜季先生の指示・言葉が知的だった。リズムのレッスンだというのに、歩行のレッスンから入っていた。ピアノの弾き方が、先鋭且つ情熱的であった。最初の数音でそこにいる子供達大人達の心を、雲の上に載せていた。

(2)リズムのためのグランドピアノ

1978年度、当時保育所の楽器の主流は、オルガンだった。確か富津市立佐貫保育所にはエレクトーンがあって、名人錦織先生が活用されていた。が珍しかった。たまたま社会館の予算に余裕が出来て主任の田中茂子先生から「どうしますか」と聞かれた私は、三十三畳のお座敷に置くと決めて大きなピアノ1台を手配した。深谷のさくら保育園のリズムを社会館でやってみたいと思っていたのだ。お座敷での(社会館保育園の歴史上)最後のお遊戯会が終わって、座敷の正面に床下を補強して貰って、ドンとグランドピアノを置いた。1982年新園舎ホールにて「公開リズム」が始められるまで「お遊戯会」は中止されたままになる。

ピアノも2台目は、櫻井光福寺の奥様であってピアノの名手でもある守麗子先生から、1台のコンサート用のグランドピアノを斡旋して頂いて今日に至っている。

(3)お遊戯会から公開リズムへ

1979年3月、お遊戯会で3歳児2名がおべべを着て童謡を踊った。関係の保護者達は大変喜んでいた。が当該の子供達は全く楽しんでいなかった。先生にいわれたことを素直に踊って見せていた。
私は、子供達の心の中を想像して、涙が出るのを止められなかった。「猿回しのサル」と同じだと受け止めた。木更津社会館保育園のお遊戯会はこの回を最後に、私の感覚によって廃止された。

1982年度、2年間の中止と3年目の仮園舎生活を経て、廃止していたお遊戯会の替わりに、新園舎の大ホールで各クラスのリズムを公開。お遊戯会よりもずっと良いと評価された。主役脇役の区別がなかった。子供達が活き活きとしていた。観客と子供達・職員が一体となっていた。我が子が集団の一員として集団を支えていることが実感できた。
お遊戯会の代わりになった公開リズムは、後に年に3回実施されるようになる。

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