04 泥水遊びと大プール

「汚い」があるから「きれい」がある。
子どもにとっては「汚い」より「楽しい」。

屋上に5×9メートルの大プールを設置(不潔~清潔)

1986年度、私は4月以来の泥遊びを、清潔なプール体験で終わらせて上げたかった。
綺麗なプールに入る前に、汚れた泥水遊びを徹底的にしておくことが、子供達の精神を柔軟且つ強靱にすると私は仮定している。清潔願望は、汚れ願望を充分に満たされて後に、初めて充足されると感激的に反応する。「わー綺麗!」といって清潔な水に子供達は飛び込んでいく。

不潔を知らないまま与えられる清潔状態は、自壊崩壊しやすく、もろくあっけない終わり方をする。清潔状態は一種の緊張状態である。内発的な清潔志向なくして、健全な清潔体験の維持は困難だ。不潔体験なしの清潔生活は、汚れ、不潔を恐れ忌避する精神を生む。潔癖も度が過ぎれば、病気となる。

本来、程々の汚れ願望を人は持っている。不潔さへの程々の鈍感さが、実際の社会生活を支えている。この汚れ本能と鈍感さを失って人は苦しむことになる。電車のつり革もドアの取っ手も洋式トイレもばい菌だらけに思えて触れない。食堂の割り箸(人の指が触れている。)も自動販売機の缶ジュース(特にプルトップのふたが内側に曲がる構造)も不潔に見えて口を付けられない。大体、空気中に浮遊するばい菌・ウイルスのことを思ったら呼吸も止めなければならない。というわけで、30分おきに手を洗い、マスクを一年中外さない暮らしということにならないためにはどうするべきか。「完璧な清潔志向は身のためにならない。」と覚ること。幼い時に、過敏な清潔志向を学習させないこと。何でも程があると言うこと。生きることを楽しもう。夢中で生きよう。つり革のばい菌など気にしている余裕のない充実した日々を送ろう。

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