06 くじら組を待ち受ける数々の壁

(1)目指せマイ竹馬8段
(2)1989年の自性院本堂へのお泊りが雪国のはじまり
(3)自転車隊が矢那川河畔に現れる

1つの挫折が大切。やり遂げてできる自分と出会えた経験が、様々な試練を乗り越える大切なヒントを子どもたちに与える。

(1)目指せマイ竹馬8段

これも斉藤公子先生の実践をそのまま頂いたものだ。但し、導入方法や目標設定は全く私達の独創による。最初は数本の竹馬が作られてあって、乗りたい子が乗ればよいというものだった。足台はシュロ縄で竹に結ばれてあって、その高さ1段は最後まで変わらなかった。

次に、それらの数本の常識的な竹馬を練習専用車にして、連続100歩を3回できたら、1人1人に自分専用の竹馬が与えられるようになる。自分用は子供達各自が園長の指導の許、自分で切って製作する。組み立ては園長がするが、竹や板の加工は、子供達の仕事。

というわけで、毎年数名は大人の身長以上の高さにその竹馬の足台が上げられるようになっていった。竹の節3段がスタート(練習用竹馬は、節1段から始まって3段で終わる。)で最高8段を子供達は目指す。「落ちたら大変だ。」と大人は身構える。子供達は「やる!」という。とても怖いはずだが、彼等は、真っ直ぐ私の顔を見て「やる!」と言う。保育園生活最後の決定的瞬間。私と担任達は、(落ちたら必ず受け止める、と)覚悟を決めて「やろう!」と応えた。

あれから35年以上が経った。結果は、35年間に3名が、2.5メートルほどの高さから落ちた。落ちた子らは、落下の苦痛から回復するのに15分ほどを要したが、復活挑戦してくれた。問題は、歩き始めの数歩のところ。介助者もちょっと油断する助走区間。介助者の油断は、園長の責任。園長の気迫が足らないから、職員が油断するのだ、と今でも気を引き締めるのです。

(2)1989年の自性院本堂へのお泊りが雪国のはじまり

1989年度、くじら組自性院本堂に2泊3日した。
宿泊保育は、親離れ子離れの促進コースとして有効だと分かって来て、1泊2日の宿泊を保育園内や自性院で試みてきた。この年、初めて2泊を試みた。親達の動揺に比べて、仲間と一緒の子供たちの方が満足感が高かったようだ。後に宿泊保育は年間5回になっていく。
うち1泊が3回、2泊3日が2回。2回目の2泊は、卒園旅行を兼ねて、雪国に行くことになる。これも偶然のきっかけから始まる。

(3)自転車隊が矢那川河畔に現れる

1993年2・3月くじら組は3チームに分かれて、袖ヶ浦の坂戸神社・新日鐵正門前公園・鎌足の暁星学園まで自転車往復旅行を実施。翌年からは、鎌足保育園が中継点の20㎞コースに全員が挑むようになった。

東京の双葉保育園の園児達が玉川の土手を自転車で走っている、と聞いたのは随分前のことだった。数年前から流行っていた一輪車数台をヘルメットと一緒に購入したが、なかなかうまく行かなかった。一輪車より二輪車の方が安全で運転しやすいだろうと私はすぐ考えた。1991年の秋頃から導入した自転車は、子供達・職員達に受け容れられた。そこで一年後、双葉保育園の玉川土手が、木更津の矢那川河畔に再現されたのだ。自転車は、歩くよりも実は楽チンなのだが、歩くよりもずっと快適で格好良い。

学校は、4年生になってから練習せよと言っているらしかったが、5歳児の方が、失敗を厭わず、繰り返される横転や擦り傷にもめげない鈍感さを持っている。4年生の敏感期にこのような困難を与えるのは間違っていると私は考えた。

宿泊にも自転車にも、親の動揺をよそに子どもたちはワクワクでいっぱいだ。

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