13 静の保育:折り紙・椅子などなど

(1)椅子だけど椅子でない椅子
(2)クリスマス(キリストの誕生日)を祝う会を止めた
(3)「クラス便り」で仲間全体の中の我が子がわかる
(4)卒園証書には自分の画がある
(5)運動会で折り紙が空を飛ぶ
(6)時間外保育ではお迎えを忘れて折り紙や空き箱工作に夢中になる
(7)「ゆりかもめ寺町分館」のオモチャは全て手作り

お迎えを忘れて折り紙や画描きに夢中になる。

(1)椅子だけど椅子でない椅子

1979年度 木製の椅子を購入し始める。3歳クラスから1年ごとに、順次鉄芯のイスを木製の椅子に変えていった。
サクランボ保育園の広大な園庭の隅にあった工房の主:松本さんがデザイン製作した椅子。妻、ハルエが運転する自家用の乗用車で埼玉県深谷市の郊外、桑畑だらけの大谷という所(そこにサクランボ保育園はあった。)まで買いに行った。

この椅子は優れもので、0歳から大人までその高さを変えて使える設計になっていた。椅子としての用途以外に、オブジェにも机にも何にでも使って良いのだった。右足が不自由のようだった松本さんに「この椅子は椅子に見えませんね。」と私は申し上げた。「私はこれを椅子としてデザインしたつもりはないのですよ。これをどう使うかは、子供達が決めることです。」明らかに斉藤先生から椅子を注文されたはずなのに、松本さんは不思議なことを仰った。

「椅子で遊んで良いのなら、机で遊ぶことも出来る。」と私は理解した。椅子は椅子だから椅子なのではない。椅子として認識されている限りに於いて、椅子なのだ。そのものの名称にとらわれず、その機能性と時々の有用性に着眼する力を子供達に求める発想は、サクランボ保育園園庭の南の隅にあった松本工房での松本さんの一言から発している。

絵本棚も、雑巾掛けも子供用の机も松本さんから送って頂いた。因みにハイハイ板は、アイデアをさくら保育園から頂いて、木更津の秋元木工に作って頂いた。

机として

椅子として

(2)クリスマス(キリストの誕生日)を祝う会を止めた

1979年度 クリスマス会を止めた。
日本人がクリスマスを祝って、クリスマスツリーを飾り、ケーキを作り、ダンスパーティーを開催し、声を合わせて「メリークリスマス」と言い、サンタクロースのプレゼントをお願いしたりし始めたのは、キリストの誕生日を祝い、キリストが処女マリアから生まれたことを、唯一絶対の神に感謝するためではない。
日本を占領していたアメリカ軍に媚びを売り、アメリカ軍に対して逆転反撃の意志がないことを「ご了解頂く」ためだった。そのために昭和天皇陛下は、皇后陛下と共に聖書の勉強会を始められたし、日本人達の何人かは、アメリカが尊び敬うキリスト教の神を信じてみたり信じた振りをしたりした。そこまで出来ない人たちは、せめて異教のクリスマスという不思議で楽しそうなレクリエーションを真似たのだ。要するにアメリカ軍の機嫌を損ねることを恐れていたにすぎない。

今、ダンスパーティーが廃れ、クリスマスケーキが売れなくなり、クリスマスツリーよりも賑やかなホワイトイルミネーションを煌めかせながら、松飾りとクリスマスリースをごっちゃにして、日本のお正月よりもクリスマスが優越しているかのように振る舞ったり、見事な程に無節操無教養無分別だ。これは結局、キリスト教に対する冒涜だと私は受け止めた。
県庁時代、年末になると海外に出た。12月24日を挟む2週間、3年連続でドイツにいたことがあった。クリスマスを祝うドイツ人達の真摯さ。子供達はピアノではなくパイプオルガンを習っていた。24日夜の正餐の質素なこと!夜、私を置いてけぼりにして人はいそいそと教会に行ってしまった。というわけで、木更津社会館保育園は、クリスマス(キリストの誕生日)を祝う会を止めた。

(補足)1970年頃のソビエット連邦の首都モスクワ(初めての海外旅行体験)のクリスマス風景も私の判断を後押ししたことを記しておきたい。正にそこは秘密警察の母国、共産主義者達の祖国。宗教そのものを麻薬と断じる憲法を掲げる国。その首都モスクワに1本のクリスマスツリーがそびえ立ち、1人のサンタクロースがいた。しかも本物のの雪橇に乗って、彼は私の前を走り抜けた。イエスキリストの誕生を祝うはずがない共産主義者達の国ソ連邦が、サンタさんを展開している。

「余り(賢人達は)深く考えなくてよい。(愚民達が)楽しければよいではないか。」と共産主義者達は言っている。では、私も「余り深く考えなくてよい。」ことにするか?共産主義者達の判断の根っこに、宗教への侮蔑と拒否の気持ちがあるとするなら、「楽しければよい」の真意は、「宗教への冒涜」でもあることは明らかだった。私は共産主義者にはなれない。やはり「冒涜」は止めよう。
というわけで、「クリスマス」の「お楽しみ会」を木更津社会館保育園から削除する方針は、維持された。

(3)「クラス便り」で仲間全体の中の我が子がわかる

1986年度、1人別の「連絡ノート」を止めて「クラス便り」に変えた。
3歳クラス以上(現在は1歳クラスから)個別の「連絡ノート」を止めた。1人1人の動きよりも、仲間全体の中で我が子がどうしているかを親達は知りたい。全体の状況を、個々の子供達の名前をこまめに織り込みながら活写して親達に伝えることとした。

「連絡ノート」の記入は、子供達1人1人に毎日されており、職員は昼に休む暇もなかった。これは労働基準法上でも改善が必要であった。親達の願いと職員の勤務態勢の事情から、「クラス便り」は産み出され成功した。各クラス、週に2/3回、クラスによっては、年度初めには毎日発行されている。

(4)卒園証書には自分の画がある

市販の一律の証書から、各年度で一番素敵な画を選んで印刷した社会館独自の卒園証書へ進化して数年。くじら組の全員が自己の画と言える画を残していると気付いて、1989年度から全ての証書に本人の画を添付して仕上げるようになった。すべての証書の絵が違う多様な仕上がりとなった。

月刊誌「ソトコト」2012年5月号56ページにホールに広げられた卒園証書群の全景が掲載された。(4月発売の5月号の)取材が3月の卒園式直前にはいった。子供達全員の絵が揃い、各自の卒園証書にそれぞれ貼り付けられて、卒園式の日を迎えるまで1週間もない。
たまたま全部の卒園証書をホールに並べて、全体の雰囲気を確認しようとしていた時に、「ソトコト」のカメラさんが来ていた。卒園式の日には丸められて、誰も中身を見ることができない卒園証書達の全景が月刊誌「ソトコト」の56ページに大々的に掲載された。2012年3月の卒園生達は幸いだった。

(5)運動会で折り紙が空を飛ぶ

1990年度、くじら組運動会で12面体を作った。
時間外保育での折り紙教室が成果を上げ、くじら組全員が12面体を作った。1993年の運動会では3チームに分かれて3つの大きな12面体が作られ、ヘリウムガス入りの風船多数の浮力によって、3ヶの風船それぞれが空に飛んでいった。

(6)時間外保育ではお迎えを忘れて折り紙や空き箱工作に夢中になる

時間外保育で折り紙や空き箱工作をしている。
これは依田あき子先生が始めて下さったものだ。時間外保育の子供達は2歳以下と3歳以上に分かれて保育されてきた。3歳以上を担当されていた依田先生は、いつしか折り紙を子供達に手ほどきし始めていた。年長児達が最後には30面体を折れるようになったのは、彼女のお陰であった。

現在は高橋光子先生が、折り紙のみならず、空き箱や自然素材を使った、創作を子供達に促すようになって数年になる。夕方の時間外保育の子供達は段々減っていく。その心細さを忘れて子供達が、一心に何かに夢中になったまま、「お母さんのお迎え」になることを私は望んできた。子供に鞄を背負わせて父母の迎えを子供が待っている様にする終わり方は、私にとって切ないだけでなく、母達をも苦しめるだろうと私は考えた。「親が迎えにきたらすぐに帰れるから良い。」という論法は、保育者側の勝手な正当化論であり、私は取らなかった。

夢中で遊んでいた子供が、迎えに現れた母に向かって飛びついていったまま帰っていくことは素晴らしいではないか。「後始末は誰がする?」担当保育者がすればよいことではないか。子供が「さようなら。」と手を振って帰りながら、「明日もまたここで遊びたいな」と思ってくれればそれで言うことはない。「良かった。良かった。」と思いながらウキウキと後片づけをする保育者が、社会館にはいる。

(7)「ゆりかもめ寺町分館」のオモチャは全て手作り

2003(平成15)年5月開館した「ゆりかもめ寺町分館」のオモチャ類の全てが「手作り」である。小糸町立中保育所職員として奉職され、小糸中保育所長で定年退職されたばかりであった鈴木和代先生が、ボランティアとして、その「手作りオモチャ」の殆どを、作って下さった。「手作り」が「ゆりかもめ」の流儀として、利用の親達に受け容れられていくキッカケを鈴木先生が作って下さったのだ。

30年前、1972(昭和47)年4月、私は千葉県の出先機関である君津支庁社会福祉課社会係職員として保育所監査担当になった。4市の50の保育所を巡る中で伺った、君津市の小糸中保育所の主任保母が、30歳前の若き鈴木和代先生だった。当時、公立の保育所長は市長や町長が兼務するのが普通で、主任保育士が事実上の所長・園長であった。こちらは大学を出たばかりの24歳の若造で、よく偉そうに保育所監査などをやっていたものだと思うが、県庁内では、大した仕事とは思われていなかったのだろうと思う。が現場の保育所側の緊張感は相当なものがあって、監査終了、そして指摘事項もない時の保育所側の安堵感はよく分かった。鈴木先生も、若造の監査官に対し始めは緊張し、最後にはニコニコと応対し送り出して下さったものだった。

その監査官が、木更津社会館保育園の園長になっていた。新しい子育て支援センター「ゆりかもめ寺町分館」を立ち上げるに当たって、退職の噂を聞いた鈴木先生に電話を掛けて、ご支援をお願いすることになるのが、30年後のことであった。実は、私の家内、宮崎ハルエが千葉大教育学部より、君津市教育長竹内金兵衛先生にスカウトされて、社会教育主事として赴任したのが、1970(昭和45)年4月に新設された君津市小糸公民館であった。ハルエは、公民館の新任職員として小糸中村の先輩鈴木先生にしばしばお世話になることになる。中保育所の責任者として、公民館の仕事に協力して頂くことが多かった先生のことを、ハルエは忘れていなかった。逆も真であって、それ故に鈴木元所長はわざわざ木更津まで、「ゆりかもめ」の立ち上げ支援にお運び下さったのだと私は承知した。

小糸の人らしい穏やかな立ち居振る舞いは、「寺町分館」の雰囲気を安定させ、若い母親達の信頼を集める重要な柱となった。「ゆりかもめ」本館にある高級なオモチャ類を、「寺町分館」には置かない。母親達が自分で造れるオモチャのお手本を置く。私の想いを先生が、確実に実現させて下さった。世間が未だ丹精と創意工夫を当たり前としていた頃の人、鈴木先生は当たり前のように、どの家にもある不要な物品を手品のように素敵な玩具に変えて見せてくれた。「ゆりかもめ」の流儀の1つ「手作り」はここに発するのだ。子ども祭りを始めた時にも、若き担当者達をしっかりと後ろから支えてくれた先生のご支援ご指導を私は忘れない。

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