(未使用)地域子育てセンター「ゆりかもめ」の歴史 1

地域子育てセンター「ゆりかもめ」の歴史

Ⅰ 社会館保育園が地域子育て支援事業を開始
Ⅰ-1 地域子育て支援センター「ゆりかもめ」発足
 1995(平成7)年、木更津市からの委託事業として、社会館地域子育てセンター「ゆりかもめ」が発足した。県下で4番目、県南部では最初の企画であった。
 当時、15年後の今日の「ゆりかもめ」の姿を予測した者は、社会館保育園内部には私を含めて、1人もいなかった。実際、副園長以下、社会館職員がその意義を納得するのに3年程の月日を必要とした。「ゆりかもめ」主任三橋京子は、園長と委託事業の最終責任者である市役所児童家庭課、その当時の課長服部善郎氏(現副市長)の指導と励ましだけを頼りに頑張った、と言って言いすぎでないくらいに孤立無援であった。
 たまたま、「ゆりかもめ」指導員の募集に応えて採用された平野ひろみ指導員(現木一小学童保育所主任指導員)が、「ゆりかもめ」副主任格で三橋を補佐してくれていた。この方は自ら小さな託児所を経営したことがあった。責任感と実行力に充ち満ちたアイデアマンであった。私も三橋も、立ち往生すると、平野指導員の意見を求め、検討の結果を三橋が服部課長に打診に伺った。平野先生のご提案は、しばしば秀逸であり、服部課長の反応は常に変わらず私たちを勇気づけてくれるものであった。
 発足に先立つこと2年前、1993(平成5)年、厚生省の提案「保育所が地域の母子のために、育児のノウハウを提供し、出来るサービスを工夫して欲しい。」を、社会館園長が受け容れて1棟の専用施設の新築を決めた所からことは始まる。木更津市は、千葉県南部で最初のこの企画を認めてくれて、建物建設費の一部を補助した上で、社会福祉法人木更津大正会へ事業委託すべく、年間の運営費として800万円を国県と共にその新年度予算に計上してくれた。時代を先取りした、木更津地域4市では前例がない決断であった。
 今となっては当たり前になってしまった、地域子育て支援センター「ゆりかもめ」。その15年の歴史を、先ず、施設の拡充整備の面から見ていこう。
Ⅰ-2 オモチャ館構想から地域子育て支援センター「ゆりかもめ」へ飛躍

 1993(平成5)年9月
  1988(昭和63)年2月挙行された、社会館創立50周年記念事業から5年が経った。社会館保育園オモチャ館構想を私は思いついた。既に、スイス・スウェーデン・西ドイツ・フィンランド等の木製のオモチャ等を50万円分用意してあった。が、保育所園児のためには、その供用管理に自信を持てずなかなか使えない。「そうだ、オモチャ遊び専用の建物を造ろう。建物も、子供達が呆然興奮してしまうような構造にしよう。」
 1993(平成5)年9月 
  松田設計事務所との設計打ち合わせを開始して間もなく、私は「地域子育て支援センター事業」を、本年度より厚生省が開始している【偶然その1】ことを知り、建設目的を変更。地域に開かれた、地域子育て支援センター「ゆりかもめ」の用に供することに決定する。赤ちゃん同伴のトイレや、公衆電話の設置、充分な下駄箱の用意など、設計を更に充実させて、親子での集団利用に備えた構造にした。もちろん「オモチャ館」としての機能も持たせた。
Ⅰ-3 南房総最初の地域子育て支援センター「ゆりかもめ」建設、開所

 1993(平成5)年11月、私は「ゆりかもめ」の建物建設費補助金を国に申請しようとしたが、いまだそのような補助制度はなく(1995(平成7)年度より国庫補助がついた)、県児童家庭課が間に入って、(財)中央競馬馬主社会福祉財団に対し、その補助金を獲得すべく働きかけてくれた。それまで同財団は、地域子育て支援センター事業の用に供する建物の建設を補助対象にしていなかった。が、驚いたことに、年度途中でその補助要項を改正し【偶然その2】、地域子育て支援センターの建設を補助対象に含める措置をとってくれた。全国で3件の該当があり、「ゆりかもめ」はその1件となったと聞く。実に有り難く幸運なことであった。かくして、中央競馬財団から補助金1200万円、木更津市から112万円の補助金をいただき、更に県社協から500万円を借り入れ自己資金を加えて2400万円で、木造2階建ての瀟洒(しょうしゃ)で不思議な建物1棟の建設を始めた。
 1994(平成6)年11月 ゆりかもめ本館建設工事着工
 1995(平成7)年3月  ゆりかもめ本館建設工事竣工 
 1995(平成7)年4月 木更津社会館保育園地域子育てセンター「ゆりかもめ」創設
 1995(平成7)年5月 落成・開所式
 1996(平成8)年9月 同本館1階に「ゆりかもめ」一時保育所「カモメ組」開設
 「安らぎの宇宙空間」としてしつらえられていた「ゆりかもめ」1階、100万円もする移動書架さえ備えられていた場所が、一時保育所として改造された。高殿のようなデッキが付けられて、更にイメージを洗練させた「ゆりかもめ」本館。定員10名が、常にオーバーするようになるのに時間はかからなかった。

Ⅱ 「ゆりかもめ」の飛躍
Ⅱ-1 「森の保育」の拠点「森の家」を建設
 1999(平成11)年11月、自性院境内に、木更津社会館保育園「森の家」建設開始。

 この年、政府の景気浮揚対策事業として、社会館に、降ってわいたような補助金「少子化対策臨時特例交付金」602万円が交付されることとなった。【偶然その3】社会館は、この年の3月に始めていた「森の保育」のために施設を建設することにし、県を介してその可否を打診した所、厚生省はこれを認めてくれた。県社協からの借入金500万円及び自己資金と併せて2100万円で木造21坪の囲炉裏付きの「森の家」を、請西自性院境内3000坪の裏山に建設した。
 「森の家」の建設は、「森の保育」の存在を広く知って頂くいい機会になった。現在の森の分園「佐平館」の元所有者石渡早苗氏。その申し出「私どもの古い屋敷を社会館は、森の保育で使う気がありますか?よければ譲りますよ。」【偶然その4】につながった。
 2000(平成12)年3月木更津社会館保育園「森の家」竣工
Ⅱ-2 「ゆりかもめ」が保育園内から街の中に展開 
 2002(平成14)年5月「ゆりかもめ」寺町分館建設着工

 2003(平成15)年5月「ゆりかもめ」寺町分館竣工
 2003(平成15)年5月「ゆりかもめ」寺町分館に広場「この指とまれ」開設。
 「ゆりかもめ」寺町分館は、2002(平成14)年に宗教法人愛染院が土地建物を 確保建設して、檀信徒会館とした上で、広く地域の子育て支援事業にも供するために、 社会福祉法人木更津大正会に無償貸与したものである。
 木更津駅から徒歩5分位の市街地に、60坪の土地を確保できた【偶然その5】上に、関係者のご理解により、愛染院に建物の建設費4000万円を負担してもらえたこと【偶然その6】も、信じられない幸運であった。
 かくして、「ゆりかもめ」は社会館保育園から外に出て、文字通り、地域の中で、地域に直接開かれた、地域子育て支援センターとなった。発足以来8年が経っていた。社会館

保育園内にあった、それまでの建物「ゆりかもめ」を、一時保育専用「ゆりかもめ本館」とし、新館を「ゆりかもめ寺町分館」として区別し、「寺町分館」の開設披露式典には水越市長さんが出席、この式典を「ゆりかもめ」の母達が共催してくれた。
 母達の構想力、実行力は目を見張らせるものがあった。【偶然その7】「ゆりかもめ」指導者達が引き出した母達の才能は、「木更津こどもまつり」を成功させ、「ゆりかもめ」の新しい分館「東清分館」開設の時には、開設準備の段階から縦横に発揮された。私が依頼する希望条件一言二言は、彼女たちの頭脳を通過すると、私の予想を遙かに超える結果・作品となって立ち現れるのであった。
Ⅱ-3 「ゆりかもめ」が「森の広場」を開設 
  2003(平成15)年11月「ゆりかもめ」森の広場「かくれんぼの森」開始。
  「ゆりかもめ」寺町分館がその事業を開始するや、利用する市民が殺到。その利用圧力を分散するために、3歳になった子供達とその親達を、木更津社会館保育園「森の家」とその周辺の森でも受け容れられるようにしたのが、森の広場「かくれんぼの森」であった。これは、臨時特例交付金の目的に合致していたが、地域子育て支援事業「森の広場」として使うことは、当初、全く想定されていなかったことで、【偶然その8】補助金の更なる有効活用が出来たことは偶然のことであった。今「森の広場」は全国でも希有の例として存在している。
Ⅱ-4 「ゆりかもめ」東清分館開設 
 2006(平成18)年4月、旧市立東清保育園の跡地を地域子育て支援センターの広場として拝借整備。
 2004(平成17)年3月を以て、利用者激減のため閉鎖されていた、旧市立東清保育園の施設を活用して欲しいという東清地区地元住民の要望が、市会議員前田清治氏を通して社会館に届いたのは、2005(平成17)年春。【偶然その9】前田議員は木二小

ポプラクラブが木二小校庭を拝借する際に、重要な支援をして下さった方で、私どもにとっては、ご恩返しのチャンスだった。
 「ゆりかもめ」寺町分館と、森の広場「かくれんぼの森」に入りきれない利用者を受け容れることで、旧市立東清保育園の活気を取り戻せるかも知れない。その位置が、余りにも木更津市の東のはずれに寄っていたために、そこまで利用者が来てくれるかどうか些か不安はあったものの、広い駐車場を確保して車での来訪を期待した。
 結果は、予想以上の利用状況となり、地域活性化の一助となるという当初の目的は、達成の可能性が見えてきた。近くの木更津総合高校周辺が、大スーパーアピタ・ユニクロの出店等、急速に発展し始めたのも追い風になった。
 この40台の車を収容する駐車場は、地域の旧家の方、それも市役所職員のご厚意で【偶然その10】確保されたもので、これがなかったら、車での遠来のお客様を受け容れることは困難であった。木更津市児童家庭課金綱房雄課長(現福祉部長)を初めとする関係者のご理解ご支援もあって、次々と出てきた課題困難が次々と解決されていく様は、「凄

い!」としか言いようがない不思議なことであった。
 「東清分館」整備を完璧ならしめた極めつけの偶然【偶然その11】は、元市立東清小学校校長山口満夫先生を「東清分館」の護衛・男性指導者・地元住民及び各機関との仲介者として、お迎えできたことであった。地元市会議員前田清治氏が「先生は、私の恩師です。悪いことをすると、あの大きな手でよく張り倒されました。地元で生まれ育った方で、東清地区のことは隅々までご存じです。」といって、ニコニコと山口満夫先生をご紹介して下さった時は、私も驚くばかりであった。
 山口先生は、現在清見台にお住まいであり、私が住職を務める愛染院の、清見台地区担当の世話人さんのお一人であって、よく存じ上げている方だったのだ。その上、地元の禅宗寺院「東泉寺」の老師とは、木二中で一緒に教鞭をとられた仲であった。「東清分館」の大行事の度に、「東泉寺」境内を車の駐車場としてお借りするのに、山口先生の口添えがものを言ったことは言うまでもない。

Ⅲ 「ゆりかもめ」の流儀
Ⅲ-1 市民を育てる「ゆりかもめ」

 「ゆりかもめ」は施設の整備と共に、その運営面でも際だった成果を残してきた。先日、2009(平成21)年9月、三鷹市が全国に先駆けて作った有名な子育て広場、「はらっぱ」等の所長達2名が「ゆりかもめ」東清分館と「かくれんぼの森」を視察に見えた。「かくれんぼの森」が注目されるのは当然としても、「東清分館」がチェックされたのは光栄であった。ここは、1日の子育ての広場が終わる時、母達とその子供達が、廊下を雑巾掛けして帰るのだ。利用者が掃除をして帰る「地域子育て支援センター」は、全国でも珍しいだろう。「はらっぱ」所長達を感嘆させた、東清分館の習慣は一朝一夕に出来たものではない。
Ⅲ-2 「ゆりかもめ」の暗中模索
 1995(平成7)年5月落成・開所式を終えた「ゆりかもめ本館」は社会館保育園園庭の中にあって、非常に魅力的な施設ではあったが、いつでも人を集めるには、充分な駐車場がなかった。当面できることは、電話での相談と、個別の母子に対する子育ての相談援助、当時流行っていたオモチャの貸し出し事業位かと私たちは考えていた。
 しかし肝心の電話が鳴らなかった。途方に暮れ始めていた時、平野指導員が言った。「ここで待っているより、こちらから出かけていきましょうよ。」【偶然その12】この積極的な発想が、有り難かった。6月、早速公園での出張保育「青空保育」(後に「青空クラブ」と名称変更。)が始められた。木更津駅東側の「稲荷森公園」に、毎週火曜日午前10:00から11:30まで2人の指導員が出張した。これが当たった。「では」ということで駅西側の北片町公園と2ヶ所で「青空保育」を実行し始めるのは、7月。秋には、清見台公園ついで、畑沢の板取公園と4ヶ所の市内の公園で青空クラブが出そろうまで1年を要しなかった。指導者も主任三橋、副主任平野の他に、白石恵美子・渡部宣子の2名を加えて4人体制で毎週火・木の午前中2ヶ所ずつ青空クラブが並立することになった。ワゴン車等で屋外用のオモチャを運び、新しくデザインされた幟数本を指導員達が公園に立てると、どこからともなく親子が集まってきた。
 3年が経過。稲荷森公園に余りに人が集まりすぎて、近くのアパートにお住まいの3交代勤務の方々から「うるさくて眠れない。」という苦情が出始めた。周辺道路が、母子の車車の駐車で占領されることも問題になった。「ピンチはチャンス」。私たちは、苦情をキッカケに、請西の八崎公園(後に、むつみ保育園の運営に任す。)に会場を移すことにした。そして、稲荷森の失敗を繰り返さないため、多くの利用者が集まる清見台中央公園の駐車の状況を再検討。公園近くの清見台ホール様に大駐車場の開放をお願いした。清見台ホール代表八幡有三氏はこれを快諾。【偶然その13】かくして清見台中央公園には、木更津のみならず近隣の4つの町から、その楽しそうな噂を聞いて、毎週多数の親子が集まることになるのだ。多い日で100名を超す親子が、公園全体に広がり、時に砂場に集まって賑やかに遊んでいる風景は、普段、閑散としている中央公園の光景を見慣れている地域の人々の注目を引いた。
Ⅲ-3 「母達におもねらず」しかも母達の自発性を重視

 「青空保育」は、平野指導員が主になり、社会館流の保育を中心に据えて、子供達を活き活きと遊ばせることを第1目標に置いた。社会館流とは、水と泥での遊びを重視し、時に喧嘩を容認しようとするもの。最初、驚き、反発していた母達は、泥水につかった子供達のキラキラと輝く幸せ感を見せられて、その考えを変えていった。一方指導員達は、温かく痛快な幼子達のはしゃぎ振りを通して、逆に窒息しかかっている母達の窮状を際だたせていった。
 「ゆりかもめ」の活動が広く市民父母達の支持を受け、後年「木更津こども祭り」の大盛会につながる原因は、「母達におもねらず、社会館流を中心に据える。その上で、母達の自発的な自己変革・成長の体験を大切にする。」という青空保育指導員達の意思統一にあった。他の地域の子育て支援センター、その公園保育がうまく行かない理由は、母達が「現状維持のまま、自己のレベルを超える体験を出来ないでいるからだ」と私は推定している。
 「母達の自己肯定感が低いことが問題で、これを直すには、まずは母達の現状をそのまま受け容れること。」という方策はその通りである。が、「未来のない今は腐る」。「現状肯定でホッとした時、彼女はもう未来を予感できていなければならないのだ。」と私は考える。保育の専門家が、母達の未熟な保育観をそのままに放置するのは、余りに安易、無責任だと私は考える。もちろん野鳥たちのように、いつ逃げていってしまうかも知れない母達を指導するのは、実に難しい。この手法は「ゆりかもめ」指導員達によって、既に確立されていることであるが、15年前彼等は、慎重にも慎重を期して母達を誘導して行ったのだ。
Ⅲ-4いつでも母達が集える広場(駐車場つき)が完成
 開設当初から、20坪の「ゆりかもめ」本館は、多数の人を一度に集める余裕を持たなかった。公園での青空保育にスタッフが熱心に取り組んだのは、この弱点の故であった。電話相談、育児講座、初産のお母さんとその赤ちゃんのための「ミニオフ」、一時保育そ

して4ヶ所での青空保育等を9名のスタッフで運営しながら、それなりの成果を上げ地域の信頼を勝ち得てきて8年。
 2003(平成15)年5月「ゆりかもめ」寺町分館が公式に披露開館された。【偶然その14】ここに30台分の駐車場を持ち、60坪の広さを備えた地域子育て支援センター分館が用意された。いつでも望む時に母達が集える広場。ゆったりと幼子を遊ばせながら、情報交換が出来る町の中の独立施設、待望の「室内の集いの広場」であった。ここに再度、三橋保育士が「ゆりかもめ」主任に登用される。
 三橋京子保育士は「ゆりかもめ」発足の時、「ゆりかもめ等要らない。社会館は保育園だけでよい。」という、副園長以下園内職員の反発の空気の中で、孤軍奮闘してくれた指導者であった。その後、木二小学童保育所「ポプラクラブ」が崩壊の危機に瀕した時、社会館小めだか組の担任を兼務したまま、「ポプラ」の主任になって、「ホプラ」崩壊防止の役を果たし、子供達の人数減少を27名で押しとどめてくれた功労者であった。「ゆりかもめ」寺町分館の開館は、8年前の様な逆風の中ではなかったが、やはり「道なき原野に道を造る」仕事であった。所長宮崎の抽象的な構想を、どのように具体化するかは、三橋を中心とするスタッフ達の構想力と人脈と実行力に掛かっていた。

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